長岡市の花火師・嘉瀬誠次さんが12月14日、老衰のため亡くなりました。101歳でした。
【嘉瀬誠次さん(2004年)】
「(花火)一筋で来ましたね。命というんですかね、これしかないんだ。要するに私の命。もっと表現の仕方があるのかもしれないけど、その言葉はよく分からない」
花火を自分の「命」と話す嘉瀬さんが花火師の道を歩み始めたのは14歳のとき。その人生に大きく影響を与えることになるのが戦争の経験です。
【嘉瀬誠次さん(2015年)】
「食べ物がないこと、寒いこと。いくら戦友でも俺の食べ物を分けてやれば、俺の食べ物がないでしょ」
終戦後シベリアに抑留され、多くの戦友を亡くした嘉瀬さんが慰霊の思いを込めて製作したのが、今も長岡まつりの一番最初に上げられる花火「白菊」です。
2004年に現役を退くまで多くの人に愛されるナイアガラや正三尺玉などを世に送り出し、2016年には長岡市民大賞を受章した嘉瀬さん。
長岡市の磯田達伸市長は嘉瀬さんを「長岡花火の生みの親であり育ての親」と表現。その思いを引き継ぎ、発展に努めるとコメントしています。
花火に込めた嘉瀬さんの思い…それは代表作「長岡の花火」で知られる放浪の天才画家・山下清さんが残した言葉と共通しています。
「爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」
【嘉瀬誠次さん】
「戦争なんて、もうそんな言葉聞くのも嫌だね。火薬で爆弾を作らないで、全部花火にしたいという考え」
嘉瀬さんの花火に込めた平和への願いは、夜空に咲く大輪の花を見るたびに私たちの心に刻まれていきます。最終更新日:Tue, 19 Dec 2023 10:14:23 +0900