

12月10日にボーナスが支給される社会人も多いのではないだろうか。ボーナスの明細を手にして安堵する一方で「どうしてこんなに引かれるのか…」などと、悲喜入り混じる人も少なくない。だが、ほんの数十年前までは日本の会社員は“ボーナス”を封筒で手渡しされていた。NSTのアーカイブに残る映像から昭和と現代のボーナス事情を探る。あの茶封筒の手触りと重みを覚えている人はどれくらいいるだろうか?
■昭和のボーナスは現金手渡し

今から半世紀前の1972年(昭和47年)の新潟県庁の一室。机の上に一万円札の束が山積みになり、職員たちが総出でお札を数えている。県庁職員一人一人のボーナス支給額を確認しながら、給料袋と呼ばれていた封筒に現金を入れているのだ。

給料袋に入れられたボーナスは、新潟県庁では担当職員が一人一人に配ってまわっていた。一般企業には、上長が目の前に並んだ社員たちに「ご苦労様」などと言葉をかけながら渡していたところもあった。受け取るとすぐに明細と給料袋の中の現金が合っているかその場で数えて確認する。
この頃は全て手作業だったため、まれに間違いがあったのだとか。中にはトイレなどでこっそり数えていた人もいたという。皆一様に顔がほころんでいた。
■令和ではありえない?! 同僚の目の前で…

いま振り返ると、同僚や報道陣の目の前で自分に支給されたボーナスを数えていることに驚きも感じる。
今では考えられない光景だが、昭和の時代は県庁職員のボーナス支給の様子は、夏と冬の風物詩的な話題だったのだ。
厚生労働省が発表している「年末一時金妥結状況の推移」を見ると、バブル経済の絶頂期に向けて階段を駆けあがっている1984年(昭和59年)の、民間主要企業の冬のボーナス平均額は57万5577円。1972年(昭和47年)からわずか12年で37万9189円も支給額が上がっていた。
近年では、2024年(令和6年)は89万1460円。その12年前、2012年(平成24年)は73万9295円だった。この12年間では15万2165円の増額だった。
■消えた現金手渡し…契機は「3億円事件」

新潟県庁では1993年(平成5年)までは給与もボーナスも現金手渡しでの支給だった。しかし「給料袋」が姿を消し、明細だけが渡されるようになると、こうしたボーナス支給日の報道陣への公開も1995年(平成7年)で終了した。
ボーナスや給料が現金支給から振り込みに変わる大きなきっかけになったのが、1968年(昭和43年)に発生した「3億円事件」だ。
大手電機メーカーの従業員約5000人分のボーナス、約3億円を運んでいた現金輸送車が奪われたのだ。
昭和を代表する大事件をきっかけに、企業の間では「現金を持ち歩くリスク」が意識されるようになる。
1969年(昭和44年)に、住友銀行で現金自動支払機が設置され、全国にATM設置が徐々に広がっていくと、現金輸送のリスクと企業側の事務作業の軽減化などの理由から、ボーナスや給料の銀行振込化が一気に進んだ。
■平成で「総報酬制」に…手取り額が減少
2003年(平成15年)4月までは、多くの人たちは所得税が引かれるのみでボーナスはほぼ額面通りもらえていた。
しかし、2000年(平成12年)の法改正により、所得税に加え社会保険料も天引きされるようになった。これは「総報酬制」によるもので、ボーナスも給与と同様に社会保険料の計算対象になったのだ。
■昭和のボーナス商戦は華やか

ネットショッピングが普及した現代と違って、大金が懐に舞い込むボーナス時期は商店にとっても書き入れ時だった。当時の「ボーナス商戦」は今と比べ物にならないほど華やかで街には人が溢れていた。

新潟市古町エリア(現・三越跡地)のデパートには、懸垂幕や巨大な看板がかかっていて、デパートの力の入れ具合がわかる。
このデパートでは、ボーナス商戦等の売り出し時期には屋外でも売り場を作り、建物の外まで買い物客でごった返していた。
■ボーナス、何に使う?
賃上げでボーナスの総支給額が増える予定だという人もいるだろう。
第四北越リサーチ&コンサルティングが発表した「新潟県消費動向調査2025年夏季」のアンケート調査によると、ボーナスの使途で54.8%と最も高い割合だったのは預貯金。他には、生活費の補填、買い物の順だった。前年夏の調査と比べると生活費の補填が上昇していた。
NSTニュースタッチが2025年6月に新潟駅前で行ったインタビューでは、子どもの教育費や国内旅行と答える人も多かったが、この冬のボーナス、あなたは何に使いますか?
(新潟ニュースNST編集部)
最終更新日:Wed, 10 Dec 2025 05:15:00 +0900



