戦死した父「顔は写真で知っているだけ」
新潟市中央区の護國神社には、約8万人の戦没者がまつられている。
終戦から78年が経った8月15日、新潟市は最高気温が36.8℃の猛暑日となった。非常に厳しい暑さの中にあっても、多くの参拝客が訪れていた。
三条市に住む森口勝栄さん(79)は、父親を戦争で亡くした。「私はいま79歳。親父が亡くなったとき私はまだ生まれていないので、父親については何も知らない。顔も写真で知っているだけ」
写真の中の父親は26歳のままだ。
勝栄(かつえ)という名前は、父親が出征前に「お腹の中の子どもが男の子でも女の子でも良いように」と付けたものだという。
「戦争中に名付けたから“勝栄”なんです」と森口さんは話した。
森口さんは、毎年この日に参拝することで、会ったことのない父親と心の中で対話する一方、「戦争が二度と起こらないように」と願う自身の思いを確認している。「ウクライナで戦争をやっているが、早くやめてもらいたい。そして、日本は絶対に戦争に参加しないようにと強く願っている」
病死したおじ「お骨は帰ってこない」
新潟市の本間操さん(83)は、戦争中、インドネシアのジャワ島で病死したおじに思いを馳せた。
本間さんの物心がつくころに戦地に赴いたおじ。母親からも当時の様子を伝え聞き、思い起こされるのは一つの場面だ。「おじは出征の直前に私と弟をお風呂に入れてくれた。そして『おじさんが帰ってくるまで、元気で大きくなっていろよ』と言っていたようです」
おいとめいの成長を祈り、再会の日を信じたおじは戦地で帰らぬ人となった。
本間さんは口惜しそうに言う。「お骨なんか帰ってこない。その代わりに、白い小さな砂袋を私が腹ばいになってお墓に入れてやった。そんな思い出しかない」
戦争知らない世代も「風化させたくない」
大切な人を思い、参拝する人がいる一方、子どもを連れて護國神社を訪れる若い世代もいる。
新潟市に住む女性は、幼い息子の手を引いていた。「戦争を知らない世代だが、終戦の日の参拝はずっと習慣として受け継いでほしいと思って、子どもと一緒に毎年来ている。息子とは漫画の『はだしのゲン』を読んだり、戦争の特別番組を一緒に見たりしている。風化は絶対させたくない」
三条市から訪れた4人家族の父親は、「日本のために亡くなった方たちのおかげで今の暮らしがある。そういった方々への思いを忘れずに、子どもたちにも生きてもらえれば」と、次の世代につなぐ思いを語っていた。
戦争を知らない世代が戦争を伝える必要性は、年々高まっている。
8月15日を機に、戦争にまつわる話に一つでも耳を傾け胸に刻むことは、私たちが二度と戦争の道を歩まないことにつながっている。