中越地震で“全村避難”… 山古志地区で暮らす・働く人の思い「できることを少しずつ」【新潟・長岡市】

中越地震から10月23日で19年です。大きな被害を出し、全村避難を余儀なくされた新潟県長岡市山古志地区の様子を松村道子キャスターがお伝えします。
中越地震から10月23日で19年です。大きな被害を出し、全村避難を余儀なくされた新潟県長岡市山古志地区の様子を松村道子キャスターがお伝えします。

中越地震で震度6強を観測した長岡市山古志地区の山古志支所。地震発生時刻の午後5時56分には「希望の鐘」が鳴らされ、静かに黙祷が捧げられました。

この山古志地区では、地震により5人が亡くなっています。

【松村道子キャスター】
「19年前の地震発生後、私は取材を通して、山古志地区の山が崩れ、道路が崩壊した様子や全村避難を余儀なくされた住民の皆さんが、限られた荷物を手に自衛隊のヘリコプターに乗り込む姿など様々な光景を目にしました。19年が経ち、美しい山古志地区の姿は取り戻されましたが、10月23日という日を山古志に暮らす人、山古志で働く人はそれぞれの思いを持って迎えています」

こちらの男性は地震を機に長岡市の他の地域に移り住み、現在は山古志地区で営む店に通って仕事をしています。

【山古志で店を営む 高橋武俊さん】
「当時、所用で翌日の朝帰ってきたら、家がなくなっていた。もう跡形もないというか、一部を残して土砂で流された。家がなくなって、妻はもう怖くて住めないというのがあったみたい。今、建物自体は少なくなっているが、まぁまぁ戻った」

地震当時、中学生だった藤井美寿々さんは、去年12月に医師が引退した山古志地区の診療所で看護師として勤務しています。

【山古志診療所の看護師 藤井美寿々さん】
「常に先生がいない状況で、住民の不安が大きく、電話で問い合わせも来る。訴えを聞いてできること、不安を取り除いてあげることや他の医療機関をすすめることだったり、できることをやっているのが現状。できることを少しずつ、私ができることをやっていこうと思う」

こう話す藤井さんは今、友人と友に山古志地区を離れた同世代が帰ってきやすいように、山古志地区の近況をSNSで発信しています。

【松村道子キャスター】
「山古志地区の木篭(こごも)集落。この一帯は、土砂によって川がせき止められ、全体が水に浸かりました。今もまだ当時の建物がそのままになっていて、被害がどれほどだったか、改めて感じます」

木籠集落に暮らす松井キミさんは…

【木籠集落に暮らす 松井キミさん】
「あってはならないことが起きた。人生の分かれ目。やっぱり、避難先の体育館から自分たちの家の映像を見るのが一番切なかった。ここは空気がいいところ、愛情がいっぱいある、協力体制がある。感謝だよね」

Q.これからも変わらない?
「変わらない。若い人も協力し合う地区の姿を右にならえしてくれることを祈っている」

地震を機に山古志地区を離れた人も多く、この地区の人口は、この19年で3分の1まで減り、高齢化率も6割に迫っています。

【松村道子キャスター】
「数字を見ると、この地区の抱える深刻な現状が分かります。しかし、お一人お一人にお話を聞くと、それぞれがこの場所に愛情を持って仕事をしていることや、生まれ育った場所を大事にしたいという気持ちがひしひしと伝わってきました」

また、23日は木籠集落で阪神淡路大震災で被災した人などと、山古志地区の住民などが集まるイベントも開かれていました。

その中では、「一人の力が小さくても、また高齢化がどれほどしんどくても、こうした節目に人が集まる場をつくることが、将来起こる災害から人の命を守ることにつながる」という言葉が聞かれました。

【松村道子キャスター】
「10月23日の山古志地区からしか発信できない思いがあると、皆さん、それぞれに持っていて、その思いを発信することは、地震からどれほど時間が経っても、守らなくてはいけないことだと感じました」最終更新日:Mon, 23 Oct 2023 18:47:52 +0900