1986年(昭和61年)~1991年(平成3年)ごろまでバブル景気に沸いていた日本。バブルの象徴はいくつもあるが、「ディスコ」もそのひとつだろう。新潟にも複数のディスコがあったなかで、バブル景気が始まる頃、伝説的ディスコチェーン・MAHARAJAが新潟市にオープンした。バブル期とともに時代を歩んだ「新潟MAHARAJA」をNSTアーカイブから振り返る。
古町に現れた非日常 ドレスコードが生んだ“特別感”
新潟市中央区古町8番町にあった大竹座ビルは、2016年(平成28年)に閉館・解体された。当時は地下1階地上8階建てで、バーやボウリング場、飲食店など、さまざまなテナントが入っていた。1986年(昭和61年)、大竹座ビル2階にオープンしたのが新潟MAHARAJAだ。
エレベーターを降りると、金色に輝くエントランスにドアマンが立ち、入口で年齢確認や、ドレスコードのチェックが行われていた。

サンダルなどラフすぎる服や汚れた服、酔いすぎている客は入店できなかった。ジーンズは入店できないイメージもあるが、「おしゃれなコーディネートなら入店可能」と店長は語っている。平日は仕事帰りに遊びに来るスーツ姿の客が多く、週末はMAHARAJAに行くためにおしゃれをして出かけていたのだ。
MAHARAJAはドレスコードを導入した先駆け的ディスコだったと言われている。
ドレスコードをクリアし、高級感のあるエントランスを抜けていく…入口から優越感をくすぐる演出だ。
料金は女性は3000円、男性は3500円、金曜・土曜・祝前日はプラス500円で、17時の開店から24時の閉店まで店内で過ごせる。料金を支払うと、飲食に使える店内通貨「マハラジャ・ルピー」が渡される。
飲食は全てが「マハラジャ・ルピー」と交換で、レストランやバーカウンターでの現金支払いはできなかった。この店内通貨は、MAHARAJA全店共通ではないようで、今でも思い出の品としてフリマサイトなどで取引されている。
黒服とボーイが演出するMAHARAJA
男性スタッフが客の足元をペンライトで照らしながらメインフロアへと案内する。この撮影では店内は明るいが、実際の営業中は足元が見えないほど暗かったのだ。

店長やマネージャー等はシンプルな黒いジャケットに蝶ネクタイの制服で「黒服」と呼ばれていた。一方、派手な制服を着たスタッフは、客の案内や配膳など接客の担当で「ボーイ」と呼ばれていた。
ボーイの制服はとにかく派手で、真っ青な制服は肩から腕にかけて金色の飾りがついている。他にも、全体的に輝いている制服もあった。
MAHARAJAの制服は、この時代のファッションを象徴するシルエットだった。当時は、肩幅は広めでウエストが締まった逆三角形のファッションが世界的に大流行していた。
翌年1987年(昭和62年)の映像では、さらに派手な制服も確認できた。
たとえば、金色の上着に黒いパンツを合わせた装い、黒い上着に金色の飾りを施し、襟元にはゼブラ柄のスカーフを巻いた装いなどが見られた。女性DJのヒョウ柄の制服もあった。

黒服もボーイも、全ての男性スタッフは日焼けしたような肌の色に加え、全員がメイクをしていた。これは店の決まりで、全員がメイクをしなければならなかったのだ。男性のメイクは一般的ではなかった時代、スタッフ同士で教えあったりしていたのだとか。
ここにはレストランコーナーもあり、ガラスケースの中には、手巻き寿司やサンドイッチ、丼もの、サラダなどずらりと料理が並んでいた。
ボーイは「なんといってもレストランのおすすめは、ハーゲンダッツのアイスクリームですよ」と興奮気味に話していた。当時、ハーゲンダッツのアイスクリームが流行の最先端。この時はまだ、新潟市・万代シテイにハーゲンダッツの店舗はなく、新潟ではここでしか食べられなかったのかもしれない。
新潟MAHARAJAオープン翌年の1987年(昭和62年)に、万代シテイにハーゲンダッツがオープンしている。
金色に輝くメインフロア 熱狂を生んだ“お立ち台”
きらびやかな通路を進み、メインフロアへ。
新潟MAHARAJAは総床面積120坪で席数は150席ほどだったとか。
金色に輝く装飾が店内の随所に施され、店内は近年では見られない豪華絢爛さだ。
入口からメインフロア、バーカウンター、DJブース、壁際のソファ席など店内全てが、どこを見ても金色の装飾があり、天井にはいくつもの照明が吊るされていた。金色の装飾に照明が反射して、薄暗い店内のあちこちがキラキラと輝いている。
アーチ状に置かれ、フロアでひときわ目につく、金色の象牙をかたどった真鍮のオブジェ。これは、MAHARAJAのシンボル的存在で、全国の店舗に置かれていたのだとか。
金色の装飾は真鍮が使われている部分が多く「毎日スタッフ全員で磨いているが大変な作業だ」と店長は話す。
1987年(昭和62年)に新潟市のホテルを会場に開かれた「MAHARAJA一周年記念パーティー」でもこの「金の象牙」を模した巨大なオブジェが飾られていた。

天井には、イタリアで買い付けた最新機種の照明が8機設置されていた。店長は「この照明を日本で最初に導入したのが新潟のMAHARAJAだ」と話し、この最新の照明を使った「ライティングショー」も行われていたという。
いわゆる“お立ち台”もあった。普段は平らなフロアだが、中央の一部分だけが上下する昇降ステージになっていて、店長は「この昇降ステージが動くと客の盛り上がりが違う」と話す。
1987年(昭和62年)の店内映像では、高い場所に上がって踊る客の様子が確認できる。店内には昇降ステージのほか、固定されたお立ち台もあったと聞く。

お立ち台に上がれるのは女性だけで、男性客が上がるとボーイに引きずり降ろされたのだとか。おしゃれにもダンスにも自信のある女性たちがここに立って踊っていたのだろう。
満席の週末 VIP席に象徴されたステータス
店内が空いている時は席の占有ができたが、週末など混み合ってくると、30分ほどで席を空けなければならなかった。席を空けた人たちは、立ったまま酒を飲んだり踊ったりして過ごしていたという。そうなると店内はかなりの混雑となり、スタッフも客も人をかき分けながら移動していた。大晦日の営業はすし詰めの状態だったのだとか。
週末の混雑も気にならない、ガラスの仕切りがついたVIP席も用意されていた。
一般席と違い、ゆったりとしたソファが置かれ、広く感じられる空間だった。この頃を知る人の話では、定期的に開催されていた有名タレントや歌手による店内イベント後、この席でタレントや歌手たちが飲食していたという。
VIP席は追加料金が必要で、誰でも利用できる席ではなかった。そのため、そこに座ること自体がステータスだったのだ。

新潟MAHARAJA社長は「ヤングだけのプレイスポットではなく、ミドルエイジの社交場としても利用してほしい」と語っていた。社長の言葉通り、VIP席はミドルエイジの利用が多かったとか。
バブル期ならではの催し 豪華すぎる賞品のコンテスト
新潟MAHARAJAのオープンに合わせ、オープニングレセプションとして「ザ・美少年コンテスト」が開催された。県内外から約200人の応募があり、その中から抽選で11人が出場。優勝1人、準優勝2人が選ばれた。
「笑っていいとも」で人気だったタレントが司会、中山秀征さんがABブラザーズとして相方とともに審査員席に座っていた。
驚くのがコンテストの賞品だ。優勝者は4泊6日ペアハワイ旅行とレーザーディスクプレーヤーが、準優勝の2人にはスクーターとCDプレーヤーがそれぞれに贈られたのだ。そして参加者全員には、MAHARAJA招待券とテレホンカードなどが贈られた。
新潟市のホテルで開催された、新潟MAHARAJAオープン1周年記念パーティーでもコンテストが行われ、1000人の来場者の中から、ダンスとファッションを選考基準に“MAHARAJAキング”と“MAHARAJAクイーン”が選ばれた。
このコンテストでも“キング”と“クイーン”に選ばれた二人にはそれぞれに、ペアハワイ旅行が贈られた。
お年玉付き年賀はがきで、景品にペア海外旅行があったバブル期。ハワイは海外旅行先として高い人気を集め、日本人観光客であふれていた。1988年(昭和63年)には、日本人観光客のハワイ訪問者数が200万人を超えた。
“MAHARAJAキング”に選ばれた人は「何度目かのハワイだ」と答えていた。
夢と希望、錯覚
バブル期を象徴するディスコMAHARAJAは、1986年(昭和61年)に新潟にオープンした。いつ閉店したのか正確な情報はNSTアーカイブにはなかったが、1996年(平成8年)には閉店している。まさにバブルとともに歩んだディスコだったと言えるだろう。新潟MAHARAJAの社長は当時、「お客様に夢と希望と錯覚を与える」と語っていた。
人々は好景気に浮かれ、“夢と希望”に溢れていたバブル期。今振り返ってみると、その時代こそが、異常な高揚感が膨らんだ“錯覚”だったのではないだろうか。
社長の言葉である「夢と希望と錯覚」は、まさにバブル期の象徴だったのかもしれない。
(新潟ニュースNST編集部)















