

元外務大臣の田中眞紀子氏と新潟県出身のジャーナリスト・風間晋氏との対談が3月中旬に東京都内で行われた。「コンピューター付きブルドーザー」と評された父・田中角栄元総理。その一方で娘が知る父は「とにかく人間が好きで、ハートが温かい人」だったという。そして、生涯でただ一度だけ父が見せた涙。その理由を眞紀子氏が明かした。
■「コンピューター付きブルドーザー」の温かいハート

47歳にして自民党の幹事長を務め、54歳という若さで新潟県初の総理大臣となった田中角栄元総理。
その手腕について、田中政権で官房長官を務めた二階堂進氏は「コンピューター付きブルドーザー」と評した。
一方で、家庭での姿はどうだったのか…田中眞紀子氏は「コンピューター的でもあるし、ブルドーザー的な人」と話した上で、「ハートが温かい人だった」と振り返った。
「温かいというのは、人間が好きだったんです。今でも、ああいう人は見たことがない。おじいさんも、おばあさんも、子どもも、お年寄りも、人間大好き。だからコンピューターで、ブルドーザーで動くかもしれないけど、あれだけの熱を持っていたんだと思う」
■家庭での田中角栄は「偏食で勉強家」

一方で、角栄氏の意外な素顔についても語ってくれた。
「偏食。火が通ってないもの、お刺身とかサラダは食べない。おひたしとか煮てあるものは食べるんだけど。キャビアだ、フォアグラだなんて『お前らよく食うな』って。『お父さんは新潟の塩鮭があればいい』みたいな。それから早寝早起き。勉強家。とにかく本を読んでいて、資料を見ていないことはなかった。夜中に起きちゃうの。すごい勉強家」
そんな角栄氏の元には毎日のように政治家や官僚、地元の政財界の人が目白にある田中邸へと訪れた。そこでは、あるルールがあったという。
「お客さんが季節の挨拶とかを長々と言うと、『君、何が言いたいんだ。ずばり言え』と。それでもだめだと、チーンってベルを鳴らす。それが“帰れ”ってこと」
■父が一度だけ見せた涙

とにかく人間と時間を大事にしていた角栄氏。そんな角栄氏にとって特別な存在だったのが、角栄氏の父・角次さんだったと眞紀子氏は話す。
「お母さんのことは『気が利いてうるさい』とか言っていたけど、角次さんが上京するとなると、もう何日も前から楽しみにして。自分は生ものがダメだけど、おじいちゃんの好きなものを用意させていた」
その角次さんが亡くなった時に、眞紀子氏は初めて角栄氏の涙を見たと明かす。
「父親の角次さんが亡くなったとき、西山町の実家の2階で私と2人でいたら、嗚咽が聞こえるから何だろうと思ったら、お父さんが泣いていた。『親父が死んだ』と。この人は、自分の今の姿を父親に見せたかったんだなって、あのとき分かった」
■田中家の英才教育

人間好きの角栄氏の元には、政治家や官僚が毎日のように目白にある田中邸へ訪れたという。そして、その場には決まって眞紀子氏を同席させていた。
「役人が来ると、私にお茶を出させて『お前、これ座ってなさい』と。役人たちが『お嬢さんですか』と言うと、『ちょっとここに座らせときますから。お盆持って座って聞いてなさい』と。政治家も来るんです。『息子を次の選挙に出したいんだけど、親父さん、ちょっと選挙区に来てくれませんか』とか、そういう陳情ごと。お金をもらいに来るような派閥の人たちも。それが欲しくて来ているのが分かる。帰らないの」
政治家としての田中角栄氏の振る舞いを間近で見ていた眞紀子氏。風間氏は「角栄さんなりの英才教育だったのでは」と推察する。
それでも角栄氏は「眞紀子はたった1人しかいない跡取りだから、花よ蝶よ、好きなものを食べて、着て、遊んで、幸せに結婚して、幸せに子どもを産んで死ぬ。それがお父さんの夢だ」と語っていたと眞紀子氏は笑って話す。
ただ、角栄氏の英才教育は、田中邸での出来事に留まらず、依頼を受けた議員の選挙の応援には、学校を休ませても眞紀子氏を連れて行った。それでも一度も「政治家になれ」とは言わなかったという角栄氏。「母は、父が忙しくて一緒にいられないから、いつもそばに置きたくて連れて歩いたんじゃないのって言うんですけどね」と眞紀子氏は笑みを浮かべながら思い出を振り返っていた。
日本列島改造論を掲げ、地方から日本を変えようと尽力した角栄氏。
その原点には、両親への尊敬の思い、娘への愛情という一般の人と変わらない素朴な感情があったのかもしれない。
最終更新日:Sat, 18 Apr 2026 19:47:36 +0900




