めぐみさんを思いながら奏でる「ふるさと」
めぐみさんが北朝鮮に連れ去られた1977年11月15日の新潟市は、小春日和だったという。
その日と同じような秋の日ざしが降り注ぐ市内のリビングでピアノを演奏する女性がいる。めぐみさんが6年生のとき、新潟小学校で音楽を教えていた根津順子さん(83)だ。
奏でるのは、拉致被害者・曽我ひとみさんの証言から、めぐみさんが北朝鮮の招待所で歌っていたことが伝えられている童謡「ふるさと」だ。
根津さんが鍵盤に込めるのは、めぐみさんへの思い。「めぐみちゃんは、日本を思い出しているのかな。お父さん、お母さんのいる『ふるさと』を思っているだろうなと思って弾いている」
めぐみさんの歌声は「とてもきれいだった」
めぐみさんは中学校からの帰宅途中、北朝鮮に拉致された。
新潟小学校をその年の春に卒業したばかりの少女の失踪。根津さんは当時の記憶をたどった。「色々な噂で『家出したのではないか』『思春期だからどうのこうの』…という人はいたけれど、めぐみさんを知る教職員は『絶対にそんなことはない』と思っていた。家出するような子ではない。明るいお嬢さんだったから」
根津さんの脳裏に強く残るのは、1977年3月、卒業式後の謝恩会の合唱でソロパートを担当しためぐみさんの歌声だ。
曲目は「流浪の民」。ヨーロッパの街を転々とする移民の思いを歌ったこの曲で、めぐみさんはあるパートを、小学生とは思えない表現力のソプラノで高らかに歌い上げている。
「慣れし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」
当時の音声を聞いた根津さん。めぐみさんのソロパートに達すると「ここですよね、ここ…」とつぶやいた。
「めぐみさんは、とてもきれいな声だったので、ソロに選ばれるという点でも印象に残る子どもさんだった。『流浪の民』は故郷…幸せな土地を探していくという歌なので、めぐみさんの人生に重ね合わせて今聞くと、ズシンと胸に来る」
突然、故郷から引き離されためぐみさん。その日、母・横田早紀江さんは、夕飯にシチューを用意し、帰宅を待っていたというが、娘が横田家の温かい食卓につくことはないまま、46年が過ぎた。
毎年行うチャリティーコンサート 複雑な思いも…
11月15日に先立って行われた会見で、早紀江さんは訴えた。「私は本当に、『皆さんの子どもたちがきょうの夕方、パッと消えちゃったらどうするんですか?どんな気持ちになりますか?』と言っている、いつも。死にたくなるような思いなんですよ、親は」
根津さんは言う。「早紀江さんのあの悲痛な叫び。本当に…何とかならないんでしょうか」
根津さんは、新潟小学校の校長を務めた馬場吉衛さん(故人)に声をかけられ、2007年ごろからめぐみさんの救出活動に参加するように。
同級生主催のチャリティーコンサートでは、指揮やピアノ伴奏を担当してきた。
「被害者の帰国が叶うまで拉致問題を風化させてはならない」という強い信念を持ちながらも、思うことがある。「毎年毎年、来年こそ『お帰りなさいコンサートにしましょう』と言っている。本当にむなしくなる。言っていることが」
同級生主催のチャリティーコンサートは、今年で13回目を数えた。
めぐみさん拉致から46年 岸田首相は…
日本の最重要課題であるはずの拉致問題。岸田首相はめぐみさんの拉致から46年となったこの日、記者団に対してこう述べた。「横田めぐみさんを始め、いまだ多くの拉致被害者の方々が北朝鮮に取り残されていることは、痛恨の極みであり大変申し訳なく思います」
北朝鮮との交渉については、「事柄の性格上、具体的に話すことは控える」と言及を避けた一方、「引き続き、この一日も早い拉致被害者の方々のご帰国に向けて、全力で果断に取り組んでいかなくてはならないと改めて強く感じております」と話した。
進展しない拉致問題に焦り「命は限られている」
「今の姿を映した写真だけでも見たい・・・」という求めに日本政府の返答がないまま、めぐみさんは59歳に、早紀江さんは87歳になった。
根津さんが願うのは、ただ一つだ。「命は限られてきている。とにかく、早紀江さんが生きている間に、めぐみさんを取り返してくださいと、政府にお願いしたい」
時間的な焦りを感じながら、めぐみさんの歌声を胸に、根津さんもその帰りを待っている。