2002年日韓サッカーワールドカップ 「サッカー不毛の地」と呼ばれた新潟が世界の舞台に ベッカムフィーバーと新潟【NSTアーカイブ】

4年に一度、世界の頂点を争うサッカーの祭典・FIFAワールドカップ2026が開幕した。遡ること24年前となる2002年(平成14年)、日本と韓国で史上初の2か国共同開催として行われた。会場は両国あわせて20都市に広がり、新潟もその一つに名を連ねた。当時、「サッカー不毛の地」と呼ばれていた新潟が、いかにして世界とつながり、熱狂の渦に包まれていったのか、その軌跡を振り返る。

サッカーワールドカップ開催地決定までの道のり

1992年(平成4年)7月、新潟県が日本サッカー協会に出願書を提出し、開催地として名乗りを上げた。これを受け、新潟県招致委員会が設立、地域を挙げた本格的な招致活動が始まる。

日本単独開催が有力視される中で決まったのは、誰も予想しなかった日本と韓国での史上初の2か国共催。
約4年にわたる招致活動の末、1996年(平成8年)12月25日、日本の開催地10か所のうちの一つとして新潟が正式に選ばれた。日本海側では唯一の開催地となった。
その知らせが届いた日、新潟市の古町地区には多くの人々が集まり、歓喜が街に広がった。

新潟市中央区・古町で行われたセレモニー

当時、地域リーグで活躍していたアルビレオ(アルビレックス新潟の前身)の選手も「全財産を投げうってでも見たい試合。それが新潟で見られるなんて」と興奮気味に語っていた。

世界へ向けた都市整備の始動

「新潟から世界へキックオフ」という合言葉のもと、さまざまな準備や関連イベントが始まり、都市整備が本格化する。
新潟駅とスタジアムを結ぶ当時2車線だった弁天線や弁天橋の拡張工事が進められ、倍の広さになり、スタジアム周辺道路整備も加速した。

1997年(平成9年) 拡張工事前の弁天橋・弁天線

1997年(平成9年)に着工した新潟スタジアムは3年6か月の歳月をかけ、工事に延べ30万人、約300億円をかけて2001年(平成13年)3月に完成。同年5月のこけら落としでは、J2リーグ・アルビレックス新潟対京都パープルサンガ戦が開催され、約3万2000人を動員した。

2000年(平成12年)建設中のスタジアム

スタジアムの愛称公募では、一番応募が多かった「ビッグスワン」が選ばれ“国内屈指の美しいスタジアム”として発信された。

街に広がる大会ムード

街を挙げた機運醸成も進む。
空港モニュメントやバス広告、関連イベントの開催など街の空気は大会が近づくにつれて高まっていた。
2001年(平成13年)1月、新潟市中央区の万代シテイに、ワールドカップオフィシャルショップがオープン。

この2002年(平成14年)の日韓ワールドカップで、初めて3体一組のマスコットが採用された。このキャラクターたちはサッカーに似た架空のスポーツ「アトムボール」に参加しているという設定だった。

サッカーの大会でありながら、あえて架空のスポーツという独創的なキャラクターだったのだ。

市民の不安とフーリガン対策

一方で、大会を迎えるにあたって大きな懸念となっていたのが、欧州を中心に問題となっていた、スタジアムの内外で暴れる過激なサッカーファン「フーリガン」への対応だった。

1998年(平成10年)のワールドカップ・フランス大会では、各地でフーリガンによる暴動が起き、機動隊が鎮圧する事態に発展するなど大きな問題になっていた。

こうした状況に新潟スタジアムの周辺住民からも不安の声があがっていた。中には「フーリガンに家を壊されたら大変だから保険に加入した」と話す住民も。新潟県警では対応訓練が実施され、受け入れ体制の整備が進められていく。

訓練の様子

新潟駅やシャトルバス乗り場では、対戦国のサポーター同士が交わらないよう、新幹線改札口やシャトルバス乗り場を分けて案内すると発表したほどだった。

だが、事前の懸念に反し、徹底した入国管理と厳重なスタジアム警備の結果、大きなトラブルは発生しなかった。

2001年、新潟で初のサッカー国際大会「コンフェデレーションズカップ」

2001年(平成13年)、ワールドカップの前哨戦とも言われるコンフェデレーションズカップが開催され、新潟もその会場となり、日本代表戦を含む3試合がビッグスワンで行われた。

新潟開催初日の5月31日、日本対カナダ戦。

厳格な交通規制と大規模な輸送体制がとられていたが、シャトルバスは大混乱。行きはキックオフに間に合わない便が出たほか、帰りの便では雨の中、1時間半以上待った人もいたのだとか。

タクシー乗り場も長蛇の列

体制を強化して2日目以降のシャトルバスはほぼ待ち時間なしで運行された。一方で、日本代表戦はテレビ放送があったからか、繁華街には人影がまばらだった。

新潟市中央区古町(2001年5月31日)

飲食店の店主は「サッカーのせいなのか、閑散としている」と話し、タクシードライバーは「日曜の夜よりも人が少ない」と話していた。

十日町とクロアチアの交流

十日町市はクロアチア代表の事前キャンプ地となった。

歓迎セレモニーの様子

選手と地域住民との交流が生まれ、クロアチア代表選手たちによる子どものためのサッカースクールや、地元小学校への訪問なども行われた。

十日町市でクロアチアチームが使用した「当間多目的グラウンド」は、十日町市民との交流を大切にしてもらったという思いから「クロアチアピッチ」の愛称が付けられた。

この関係は一過性に終わらず、現在まで続いている。

開幕、新潟がワールドカップ舞台に

そして、2002年(平成14年)5月31日、韓国のソウルで開幕。その翌日にビッグスワンで日本で最初の試合が行われた。

新潟では3試合が開催され、多くのサポーターが国内・国外から訪れた。

外国人サポーターたちは至るところで歌や踊りで盛り上がり、新潟駅周辺はこれまでにない国際的な雰囲気に包まれた。

新潟駅構内で歌い踊る外国人サポーター

特に、当時世界的スターだったイングランド代表デビッド・ベッカムの人気は際立っていた。

デビッド・ベッカム選手

宿泊先にはベッカムを一目見ようと、たくさんの人が押し寄せた。

この頃「ベッカムヘア」が爆発的に流行するなど、ベッカムは社会現象を巻き起こす。当時は、街にもスタジアムにもこのヘアスタイルの人たちがたくさんいたのだ。

ベッカムがビッグスワンのピッチに登場すると、一斉にフラッシュが光ったのだとか。「ベッカム様」は2002年の新語・流行語トップ10に入るほどのベッカムフィーバーを起こした。

チケットの壁と、それでも続く熱

抽選制の観戦チケットの倍率は約10倍だったと言われていて、入手は困難だった。

大会当日には、新潟駅やスタジアム周辺に「チケットを譲ってください」と書かれたボードを持つ人や、“ダフ屋行為”をする者も現れた。

ワールドカップ期間中は、様々な場所でパブリックビューイングも行われていたが、スタジアムの雰囲気を感じたい人たちが周辺に集まっていて、スタジアムから漏れてくる歓声を聞きながら、小さなポータブルテレビを囲んで試合を見守っていた。

スタジアムの外から大きな声援を送っている人もいた。

ワールドカップが新潟に残したもの

大会は一過性の出来事にとどまらなかった。

ビッグスワンは現在もアルビレックス新潟の本拠地として使われていて「サッカー不毛の地」と言われていた新潟にサッカー文化を根付かせている。

(新潟ニュースNST編集部)