

千葉県船橋市にあるフィギュアスケートのMFアカデミーでヘッドコーチを務める中庭健介氏は、かつて選手を勝たせたい一心で厳しい指導に踏み切った経験を持つ。しかし、選手の顔から明るさが消えていく姿を目の当たりにし、半年で方針を転換した。スポーツ分析・指導を行う池上信三氏とともに「怒らない指導」を実践。アカデミーに所属する中井亜美がミラノ・コルティナ五輪で銅メダルを獲得するなど成果にもつながっている。2人が語る指導哲学に迫った。(シリーズの前編)
■“戸塚ヨットスクール”での経験が指導の根幹に

MFアカデミーで中庭健介ヘッドコーチのメンターコーチ(コーチの助言者)となっているのが、池上信三氏だ。
池上氏は、厳しい指導で有名な戸塚ヨットスクール出身。さらに家庭では、石原慎太郎氏の著書『スパルタ教育』を愛読する父のもとで育ったという。
「家庭が厳しかったのでヨットスクールが楽だった。父は昭和の恐ろしい父親という感じで、その下で生活していたので、泊りがけで家を出られるヨットスクールに行きたいと思った」
戸塚ヨットスクールでの生活については「各メディアが報じる通り」の厳しいものだった。そんな厳しい環境で育った池上氏が考える厳しさの定義は2段階あるという。
「一つは相手を思いやる気持ちがあるかどうか。コーチが『この子のためだ』と言い訳にしている段階はなし。本当に今と将来のために役立つかをちゃんと考えながら、相手が厳しいと感じたとしてもそれをやっていれば厳しくない。威圧してしまう環境をつくるのが厳しい。そこが境い目だ」と説明する。
一方で池上氏は、ヨットスクールでの体験から今の指導に直結する学びを得たとも語る。
「戸塚校長は何も教えず、ただ質問だけする。『なんでお前はヨットで走んないんだ』と。初めて乗ったのだから当たり前だが、彼は『なんでだ』と繰り返し問い詰める。『走ってるやつの船はどこ向いてんだ』『お前はどこに乗ってんだ』と。それで、人を真似すればいいんだと気づき、真似していくうちに走れるようになった。あるレースで、僕が教わっていない動きをしていたアメリカの選手を見て、それを真似してみた。すると校長がモーターボートで近づいてきて、ニカッと笑って『誰に教わった』とだけ言って去っていった。これが、僕の人生で一番褒められたと感じる体験」
この経験が、池上氏の指導の根底にあるのだ。
■「選手の顔から明るさが消えた」気づいた厳しい指導の限界

一方、中庭氏は選手として約20年、2011年からコーチとしてのキャリアを歩んでいる。現役時代は厳しい指導を受けた経験がなく、指導者には感謝しているという。
しかし、コーチになって2~3年目の頃、福岡県のフィギュアスケートを強くしたいという思いから、厳しい指導に踏み切った。
「人と比べることばかりしていた。『勝っている選手はこれだけ練習しているんだから、お前もやれ』と。相手の意見は聞かず、理由も根拠もなく、ただ『他の選手がやっているから』という一点張りだった」
根拠のないやり方を押し付けていたと振り返る中庭氏の転機は約半年後に訪れた。
「この選手を勝たせたいと思って頑張っているのに、その子の顔からどんどん明るさが消えていく。それを見てハッとした瞬間、このやり方で本当にいいのかと頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ」と中庭氏は語る。
成績も目立って伸びたわけではなく、選手は日に日に表情を失っていった。自分自身も本来厳しい指導が性に合わないことに気づき、指導方針の転換を決意したのだ。
数多くの指導者を見てきた池上氏は、中庭氏の変化について「自分が変わらなきゃいけないと思える人か、いや自分は問題ないと、選手のせいだと思う人かが、だいぶ大きな隙間がある」と話す。
中庭氏も「最初から完璧な指導者はいない。自らの問題に気づき、変わろうとする姿勢こそが重要」であることに気づいたという。
■「完璧なコーチはいない」頼ることで変わった指導

指導を変えようと決めた中庭氏がまず行ったのは、福岡県が実施するコーチ育成プログラムへの参加だった。この事業では、ソフトボールや水泳など異なる競技の指導者が選ばれ、2年間にわたって学び合う。
「一番シンプルなのは、『あ、そうだ。僕はスケートはやってきたけど、人を教えるということは全く学んでないな』と気づいたこと」
技術指導はできても、人間を育てるという視点が欠けていたことに気づいたと中庭氏。もう一つの大きな収穫は、成果を出している指導者たちも同じように悩んでいると知ったことだった。
「『もう頼ってはいけない、自立しなければ』」と思っていた時期もあった。でも、この経験を通じて、コーチだって完璧ではないし、一人では無理だと気づいた。もっと頼っていいんだと思えるようになり、より深く相談するようになった」
その時に思い浮かんだのが、選手時代から付き合いがあった池上氏だった。
以来、2人は相談を重ねながら指導法を構築していく。MFアカデミー設立時には、中庭氏が『スポーツインテグリティ』(スポーツにおける誠実性・健全性・高潔性)の徹底を掲げ、池上氏がそのコンセプトに沿った仕組みを設計した。
『誰も取りこぼさない、全員を伸ばす』という方針が、アカデミーの基盤となっている。
■「怒らないし、褒めない」

池上氏の指導には独特の哲学がある。怒らないだけでなく、褒めもしないのだ。
「嬉しいのは本人であるべきで、自分で自分を開発して自分の可能性に気がついて喜んだっていうところが一番うれしいという状態だったら何もいらなくて完結する。他人から褒められないとダメとなると勝利至上主義に一直線になる」
オリンピックから帰国した中井選手にも「お帰り」と言っただけだという。ただし、選手が何かを発見した瞬間は見逃さない。
「試合の成績でダメだったとか、良かったとか言わない。ただ、選手が何かを発見する瞬間は捉えるようにしている」
練習の場づくりにも工夫がある。池上氏は練習を“ライブ会場”に見立て、ルールを最初に明確にし、その中で盛り上がる仕組みをつくる。
「楽しそうにやっている中に、どれだけ脳や体に役立つ機能を盛り込むか」を考え続けているという。中庭氏もこの方針のもとで効果を実感している。
「まずは継続できるということ。厳しいことをやるとどこかでドカンとくる。それがあまりない安定性が生まれる」
さらに、周囲からは「楽しそうなチームだね」「なんでそんなにみんな笑顔なんですか」と言われることが増えたと中庭氏は話す。
中井亜美選手がシニア1年目で練習量を増やしたのも、コーチからの指示ではなかった。
中庭氏はシニアで必要なことを客観的に伝えただけで、「勝手に増えていた」と振り返る。
「シーズン前はオリンピックの『オ』の字もなかった。ただ、シニア1年目として成功するために必要なことをやっていたら、結果がついてきたという形。勝利至上主義にならないよう、勝つことは視野に入れつつも、子どもたち全員が上達することを目標にしている」
■厳しい指導は「悪影響しかない」 必要な厳しさとは?

厳しく指導することに対して、池上氏は「悪影響しかない」と言い切る。
「脳の発育が阻害され、思考力や発展的な発想が育たなくなる。威圧的な環境では何も育たない」
中庭氏も自身の経験から厳しい指導がきっかけでそのスポーツを嫌いになる選手も少なくないのではないかと訴える。
では、これからの時代に必要な厳しさとは何か。
池上氏は「厳しいと感じる場面も面白みに変えれば厳しさではなくなる。厳しい目にあった時に、どれだけ面白がれるかというスキルを手に入れること」と語る。
中庭氏も「厳しいことやっているんだけど、選手本人は別に厳しいと感じない状況をつくり出すのが理想」と語る。
2人とも“何くそ精神”を育てるのではなく、上達への興味そのもので伸びていく環境をつくることが重要だという。
では、MFアカデミーでは具体的にどのような指導法を実践しているのか?
MFアカデミーの指導法や大会本番直前で選手の力を最大限発揮するために心がけていることなどは後編で紹介している。
最終更新日:Sun, 09 Aug 2026 21:00:12 +0900



