

フィギュアスケートのMFアカデミー(千葉・船橋市)は、設立からわずか6年でミラノ・コルティナ五輪銅メダリストの中井亜美をはじめ、四大陸選手権優勝の青木祐奈、世界ジュニア2連覇の中田璃士など、世界で戦える選手を次々と輩出している。成果の背景にあるのは、厳しさで従わせるのではなく、選手自身が考え、動く力を育てる指導だ。MFアカデミーが掲げる3つの軸は、日々の練習や試合直前の対応にどう生かされているのか。ヘッドコーチの中庭健介氏と池上信三氏に具体的な取り組みを聞いた。(シリーズの後編)
■自分の成長の原動力は「自分自身」―3つの軸が生まれた経緯

「オリンピックのために特別な何かをしたわけではない。我々が掲げた方針をぶれずにやってきた結果として、中井の人間性が発揮され、多くの人の心に届く演技ができたのだと思う」
こう話すのは、千葉県船橋市にあるフィギュアスケートのMFアカデミーの中庭健介ヘッドコーチだ。その中庭氏が掲げた指導方針というのが、『主体性』『ベストを尽くすこと』『想像力』の3つの軸だ。中庭氏はこれらを掲げた理由について、自身の選手時代の経験を挙げる。
「このアカデミーを設立する上で自分の人生を振り返ってみた。自分が選手としてどういう道をたどってきたか。年表にすると、急に競技成績が伸びたり、自分の気持ちの中でもっとやりたい、頑張りたいと思ったきっかけが結局は自分自身だったということに気づいた」
■MFアカデミーが掲げる3つの軸

人に言われたからではなく、純粋にうまくなりたいという内発的な動機が成長のターニングポイントだったという気づきが、『主体性』を軸の筆頭に据えた理由だ。
「子どもたちに自分たちでちゃんと考えて自分で実践して、時折自分で失敗して自分で責任を感じ、また再びもう1回チャレンジしていくみたいな、とにかく選手主体のアカデミーでありたいと思った」
2つ目の『ベスト』については、勝利至上主義とは一線を画す。
「パーフェクトじゃなくて、とにかくその日のベスト、その試合のベスト、今の自分のベスト、それを突き詰めていこうと。全員がノーミスする必要もないし、全員が優勝する必要もない」と中庭氏は言い切る。
日々の練習でも体調不良の際には「ここまでならできる」と思えれば、それがベストだという考え方だ。
3つ目の『想像力』は、将来を見据えたイメージ力を指す。1カ月後の試合で結果を出すために今日何をすべきか、自分で考えて練習を組み立てる力。
これら3つの軸は、メンターコーチの池上信三氏にクラブのコンセプトを伝えて話をする中で確立された。
スポーツインテグリティ(スポーツにおける誠実性・健全性・高潔性)を守り、選手主体の組織でありたいという理念を貫いてきた結果、中井のオリンピックでの活躍という成果がついてきた。
「こういう方針で、みんなを上手にさせたい、新しいスポーツ界に堂々と出せるような組織でありたいと思っていたことをやっていたら、結果が来た」と中庭氏は語る。
■「技術を優先すればメンタルは揺らがない」

フィギュアスケートだけでなく、スポーツ界においてメンタルの重要性はよく語られる。しかし、池上氏のアプローチは独特だ。
「メンタルが技術で揺らいでいるんだとしたら、技術をちゃんと確固たるものにすれば、メンタルは揺らがない」
優先順位を技術に置くことで、メンタルの問題を根本から解消するというのだ。
「『メンタルが悪いんです』と来ても、技術を上げようかと返す」と池上氏は笑う。
ただ、心の問題にばかり注目してしまう選手には、メンタルの専門家である兄の知恵を借りたメソッドも用意している。
そのメソッドが“通知を消す”という技術だ。不安や怒りなどの感情を、LINEの通知のようなものと捉える。「通知だから全部消しちゃえ」というシンプルな発想だ。
MFアカデミーの選手たちにもこの手法を伝え、実践してから氷に乗るという手順を踏んでいる。
ただし「全員がやる必要はない。必要な人だけがやればいい」というスタンスで、情報を提供した上で選手自身に取捨選択を委ねている。ここでも選手の主体性を重んじているのだ。
■五輪本番直前…中井亜美にとった対応

試合直前の声かけや環境づくりは、「個人差がかなりある」ため、選手の個性に合わせて細かく変えているという。
ぎりぎりまで会話していたいタイプもいれば、情報を遮断したいタイプもいる。
世界ジュニアで2連覇を果たした中田璃士は普段は明るい性格だが、試合前は外部の情報を入れたくないタイプだという。
そうした選手に対しては、集中できる環境を整えることに徹する。モニターが見えない場所、会場の音が聞こえにくい場所、通路が広くて体を動かせる場所、さらには温度まで考慮する。
逆に不安そうな選手には、余計なことを考える余地を作らないよう体を動かさせるという。
「じっとしていると余計なことを考えてしまうので『この動きをして』と指示を出し、考える隙を与えないようにしている」
では、ミラノ・コルティナ五輪での中井亜美にはどう対応したのか。
SPで首位に立った中井は、フリーの最終グループ・最終滑走という大きな重圧のかかる状況を迎えた。フィギュア女子の日本人選手としては前例のない舞台だった。
「オリンピックは会場の熱気が特殊で冷静さを失いやすい雰囲気だった。だから、彼女を落ち着かせることが最優先だと考え、少しの間、通路のところで待機させた」
中庭氏はモニターが多数あるウォーミングアップ会場を避け、少し暗めの通路で準備をさせた。演技直前には「やり通してきたこと、もう楽しんでいっておいで」とだけ声をかけた。
「むしろ本人のほうがどんとしていた。僕のほうが未熟だった」と中庭氏は笑って振り返るが、このフリーで中井は冒頭のトリプルアクセルを成功させ、見事、銅メダルを獲得。日本フィギュア界最年少メダリストとなった。
■「うまくやろうとしない」大会で実力を発揮するために…

大会で実力を発揮するために「うまくやろうとしないことが大事」と話すのは、池上氏だ。中庭氏も池上氏の考えに同調する。
試合を勝ち負けだけで捉えるのではなく、そこで何を得るのかを重視しているという。
「その試合で何を得るのか、何を証明したいのか、試合で勝ち負けっていう人もいるとは思うが、そこでやってきた練習がどういう形で表れるのか、もうすべてが経験になる。結果論だが、中井選手もオリンピックでメダルを取るのが目標でもなかった。ここで学んだことを次に生かせられたらという思いが、結果として出てきた」
■怒らないを「目標」にしてはいけない―人材育成の本質

こうしたMFアカデミーが実践する指導法は、何もスポーツ界に限った話ではない。
人材育成の考え方について、池上氏は「まず人材育成の前に、怒らないを目標にしちゃいけない。その人がどう育つか、そのために何ができるかとやったときに、怒るというのはマイナスしか起こしていないというところに気がつくのが、人材育成のイロハのイになる」と説く。
中庭氏も「自分が全部正しいという物差しからスタートしちゃうと、意外に全然だめだと自分自身が気づく。そういうのも大事かなと思う」と自戒を込める。
部下にとっては、意見を言うこと自体がプレッシャーかもしれない。その背景を理解し、どんなことでも話を聞く姿勢を大切にしているという。
指示がないからこそ生まれる価値
中庭氏と協力して選手たちを育成する池上氏だが、中庭氏からは具体的な指示がほとんどないという。
唯一の要望は、オンアイスで行う技術の予習をオフアイスで行うことだ。
氷の上での成功につながる体の動きを、陸上トレーニングの中で事前に体験させるという取り組みは、MFアカデミー独自のやり方だという。
池上氏はこの経験から、今後の社会で求められる人材像にも思いを巡らせる。
「指示がないイコール、役立つことを僕が編み出して提供しないといけない。指示どおりに働くんだったらAIやロボットのほうがよっぽど正確。指示がないのに、このチームのために何かできないかという人材が今後求められていく」
スポーツ界で行われてきた“厳しさ”に頼らず、選手の主体性を引き出しながら成果を上げてきたMFアカデミー。
この指導法は、スポーツ指導にとどまらず、職場や組織で人を育てるうえでも、これからの人材育成のあり方を問い直すヒントになりそうだ。
最終更新日:Sun, 09 Aug 2026 20:39:21 +0900


